今から16年前、私がまだ14歳の6月に家族で子猫をもらいに行った。
知り合いの善通寺の印刷所には、きれいなシャム猫のお母さんがいて、3匹のトラキジと1匹のぶち猫が生まれていた。家族が賢い猫を選ぶべく抱き比べている傍ら、私は一匹のトラキジ猫を見つめていた。その猫がきっと、特別な猫で、うちにもらわれてくる猫だという気がした。
私の予感通り、その特別な子猫はうちにもらわれてきて、私たちの子供になった。きりんのように首を伸ばす癖があったので、りんと名づけた。私に似ない敏捷な猫で、ねずみやこうもり、すずめや時には鳩まで、捕まえては私に見せにきてくれていた。つらい受験生の時もいつも私と一緒に寝て、慰めてくれた。
大学生になって家を出て、寂しい思いをさせた。
すっかり成長して立場は逆転し、猫はたまに思い出したように帰省する私を心配するお母さんになった。
家では家族みんなに気を配り、介護までするようになった。
猫は感情の細やかな動物だというが、特別に細やかで、家族の誰かが具合が悪いとぴとりと寄り添ってくれた。
私が「生きるって苦しいなあ…」と思いながらベッドに横になっていたら、胸の上に乗って、無言で心配そうに顔を見つめてくれた。
今日の昼に「近所の農薬のせいか、猫の具合が悪い」というメールをもらって、実家に電話をした。猫はぐったりしていたらしいが、母の「ずんちゃんだよ」という声に「ニャー」と強く鳴いてくれた。それを言葉にすることはできないけれど、それは普通の猫が発する「苦しい、助けて」とかいうものではなくて、何かもっと私と私の子供を気遣う温かい遺言だったような気がしてならない。
夜に猫が亡くなり、深い喪失感に茫然自失、のち号泣。
それは絶対にあってはならないことで、うまく処理できない。遠くにある実家は私のユートピアで、そのメンバーが欠けることはあってはならない。大切なメンバーを失ってしまった私のユートピアのことも心配だ。
命は巡っていくもので、私のすぐそばにも生まれ来る命があるというのに、この深い喪失感を、どうしてくれよう。